ピアノの森。 そして、私が思う真実

ピアノの森。 そして、私が思う真実

アニメーションは時として、人間が表現できないものを圧倒的な想像力で表現することができる。

それは現代ではCGというかたちや、VRのように実体験をするもの、体感して感じるものへとシフトしている。

一昔前では、なんでこれを望んでいたのか。私はこの世界に(表現)足を踏み入れたのきっかけは、アニメーションである。
もともと、子供のときにアニメを見ていてもそこにはその役しかいなくて後ろで声をあてていること(声優)の存在を考えることすらもない純粋な子供であった。
そして、声優の存在を知ったのも実は結構年齢が小学校に入っても信じていたぐらいに・・・。
人の言うことをウソすらも簡単に信じてしまう子供であった。
言ってしまえば冗談が通じずそれを信じ切ってしまう、人を疑うことがなかった。
この性格のベースは今でも同じような感じで息づいている。(冗談がわからないことが本当に多いのだ。私にはね。)

だが、人生はそんなわけにはいかない。生きていれば、どうしてもウソなどが付きまとうわけで、

人の言わんとしているいることが、その言葉のウラに存在することも感じることができるよになってきた(その意図を感じるまでにはなかなかいたらないので、今だに冗談が通じないことが多々)

この題名に書かれているピアノの森という作品は2006年のもので、もう10年近く前のもの、でも以前見たときも、自分がピアノが好きなんだ、音楽が好きなんだと感じさせられるものだった。

努力よりも天才が勝ってしまうというまぁ、ぶっちゃけな内容だと、ブーイングも出ることもあるが、
それ以上に登場人物が発するセリフが今の自分にしっくりすることがある。

人のモノマネではない、本物の自分のものをやれ

映画の作品は、原作の一部を抜粋されていて、小学校の頃のコンクールのことが書かれている。
コンクールはいかに譜面通り正確にプレイできたかが勝負になってくる。
しかしこの作品ではそうではないオリジナリティーを追求させようとする。

オリジナリティー
ここからが、本題になるのだが、インプロには正解がなく、なんでもありっちゃ有りなんだが、だからこそ、その人の心が本物が嘘偽りなく、表現できることのほうが重要になってくる。
恐怖や欲ではなく、それ以上に素のままの自分が演じること。

私が今まで生きてきたことがそれ自体がドラマになっているとのことだ。

壮大過ぎてよくわからない・・・。

だが、納得している自分もいるんだ。

私が今苦悩していること、人に誘われることなくただ、舞台の金落としの役回りのように感じること、裏方として、良いように使われること、この自分に感じることすべてがOKと受け入れるときに変わるとのことだ。

我が師匠はそう言うが、生命をいつなくしてもおかしくないのが人間だから、時間は有限。それすらも手放すということ。
私の面白さ、私の望むこと、自分のオリジナリティーとはいったいなんなのか。

わからない世界がこれからも続いていく。
この文章は朝方4時頃にかかれているからUPするタイミングによってはなにをかいてるのかわからないものになだろう。

だが、このクソ真面目な私が今一歩オリジナリティーに近づくために、金銭や本当の意味で私を見てくれる人のために、公開していこうじゃないかと思うわけだ。

 

以上寂しがり屋のバカ野郎の戯言でした。

明日も感じろ私!

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写真は信頼のおける我が師匠と友人。
ここのビーガン料理がまた美味かったな。

信頼から私は学んでいくのだ。
いまま信じてきた人はこの感性は自身があるんだよ。

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