人が生きていく上で命をいただくことはどうやっても避けられないのが現状。
私はヨガをやる人間で、ヨギーとしてはビーガン(菜食主義)を推奨されている。
それは菜のほうが身体に良いと、大雑把に書くとそうなるのだが、
決してそれは絶対の状態ではない。
そのへんの誤解によって、様々な問題を呼ぶ可能性があるが、ぜひとも理解してほしい。
さて、命をいただく。
私達は肉だけにかかわらず、食を取ることで、命をもらっているのだ。
正直、自分でも好き嫌いが存在するのだが、それ自体が、
なんともったいない考えをしてしまっているのだろうかと思ってしまう。
肉を食する時に現在スーパーなどでは、切り身として販売をしている。
つまり、命を持った何かではなく、食材としているのだ。
私達は単純に数百円で購入し、そしてそれを食べる。
このシステムは経済発展と農家さんの力添えのおかげなのだ。
肉には命があった。
生きていたからこそ、その存在をありがたくいただく。
頭ではわかっていても、身体では理解していない。
命を奪う行為そのものはやはり目の前で見たときには衝撃的なものだからだ、
生きた命をとり、そして食する。当たり前の行為が、
経済の流れによって見えなくなっている。
だから、私はそのルーツを感じるため、
この猟というシステムをしっかりと見直し理解するべきなんだと思う。
命を感じるために、そして、ジビエをもう一度見直す
彼らを少し追っかけてみようと思う。