この会は子守唄を守っていこうというNPOの団体の話です。
今回は、アイヌ伝承者である宇梶静江先生(以後宇梶さん)
なぜ、このような話になったのかといえば、アイヌにも子守唄がある「イフンケ」(母、地球 という意味)
それを興味を持った主催である西館好子さんが興味を持って話が行ったようです。
母の子守唄(ピリカモクル)アイヌ語
アルラッサーオホホオ
アルラッサーオホホオ
カムイシンタランラン
アルラッサーオホホオ
アルラッサーオホホオ
カムイトットランラン
アルラッサーオホホオ
アルラッサーオホホオ
ピリカピリカムクルナ
ピリカアンクルシモコルナ
アルラッサーオホホオ
エジーハッチャモンダイケ
アルラッサーオホホオ
アルラッサーオホホオ
ピリカピリカムクルナ
アルラッサーオホホオ
この歌とともに母の思い出を語ってくれました。
宇梶さんが26歳の時に他界されたそうです。
戦争があったからこそ、全くと言っていいほど、何もな時代。
食事も衣服すらもままならない。
そんな時代の中、自分たち富よりも貧しい人たちに分けてあげていたそうだ。
父親から、「頭の黒いネズミが、うちのもみを持って行くから、もみの番ををしろ」
と言われたそうだ。(頭の黒ネズミとは母のこと)
それを母親にいったところ
母親は「お前たちが、どこ行って暮らしても、食べていけるように、母ちゃんは種を巻いているんだからそんなことを言うもんじゃない」といったそうだ。
「この種をわけて、みんなで収穫して食べるんだよ」
と育てられたそうだ。
この話が、最後の草加おかみさん会につながっていく。
当時アイヌは倭人(北海道開拓移民)と違い、殆どの人が、助けあいの姿勢を貫いていたそうです。
倭人の人たちは自分たちが生きていくことに必死でたとえ米がなくて死んでしまったとして知らん顔だったそうです。
このストーリのなかでとても素敵な話がありました。
服がない時代、サージという生地を手に入れて、お母さんがしょうじん服を(よそ行きように)作ってくれたそうです。宇梶さんはそれが氣に入っていて常に持ち歩いていたそうです。
その時は10キロ以上山の中に入りそこで、村の男衆の苗木を植える仕事を手伝っていたそうです。
その場にアイヌではない、おばさんが子供2人連れて背中に子供をおんぶして、男の人にお金をもらうためにその場を訪ねてきたそうです。その格好が、大きなおなかをしていたのに、お腹が完全に見えるような状態だったそうです。
好き好んでではない。へそ出しルックスというやつです。
当時では斬新以外のなにものでもないでしょう。
それを見た宇梶さんはあまりにもびっくりし、たまらなくなって、その大切な服をあげてしまったそうです。
お母さんが作ってくれた、そして自分でもとても大切にしていたその服を。
宇梶さんは渡してしまったものは忘れていたようなんですが、
その後村に帰ったらそんな友人から、
「あの着物誰かにあげた?」と聞かれたそうです。
宇梶さんが、あげた服を着たおばさんがお母さんの元に訪ねてきたそうだ。
どうやら服をあげたときに、内にくれば野菜を分けてあげると伝えたようだ。
しかし、そのおばさんは、リアカーを引っ張ってきたそうです。宇梶さんはまさか、リアカーをもってきて、野菜をもらいにくるなんて思ってもみなかったので、それもびっくりしたとのこと。
しかし、お母さんは何も言わず、大根や芋や人参、カボチャなどをリアカーにつめて、渡したそうです。
自分の娘の服を着た見知らぬおばさんに、野菜を分け与えたこと。
その後宇梶さんにはこのこと、服のこと、一切なにも聞かれなかったそうです。
当時の暮らすことの大変さがつぶさに感じられるいきさつです。
そして、アイヌという民族の大きさを感じるものです。
その時、おこる現象はすべて、理由があるから決してその問題攻めることなく、怒ることなく、受け入れる。咎めない。
自然を慈しみ、畏敬の念をもって生きている人達。
そして、話は進み、後半は、全国の子守唄を川口京子さんの声にのせて、唄われていった。
この人の唄も芝居をしっかりとやってくれているといえば良いのかな。私ごときが、語れるようなものではないが唄を語ってくれていたので、心とその空間を動かしていた
CD 買わせていただきました頂きました!
そして、最も感動した部分が、結びの部分です。
このブログでもか何度、書かせてもらっていますが私は小見寺さんのつながりで、宇梶さんとは何度かあわせてもらっているのです。
アイヌについて、いろんなことを話して頂きました。そして、に私自身がなぜ、こんなにアイヌにし興味を示し、更には縁があるのか。
宇梶さんは最後にこの会の終わりに、草加おかみさん会のことを話したんです。
「アイヌ民族が自活できるように、大地さえあれば、生きていけると教えられてきたのに、なかなかそのことで目が出なかった。しかし、草加おかみさん会、会長の小見寺さんが、私が何十年と言い続けてきたことを、受け止めてくれて、これから秋蕎麦を作る畑と種籾と機械を持った人たちの協力で、アイヌは種を植えることが決まりました。それを秋に収穫し大地に受け止めてもらってその結果を3年たったら仕事に繋いでいこうという話ができた。…」
種を植えること、宇梶さんのお母さんの思いを繋げることができたこと。それを舞台で話してくれました。
いろんな事がつながった場所でした。
そうしたら、私にとってとても重要であった宇梶さんと初めてあった時、元フジテレビのアナウンサーで屋久島の自然音楽をバックに朗読をされていた山川さんとも会うことができました。
会いたくても会えなかった縁がまた、この場で会うことができたこと。
感動の連続です。
母の愛。先祖の縁。糸を紡いでハリで縫う。
北は開かれる。
人だから、忘れるし、間違えるけど、この瞬間瞬間の心を大切にしていこうと改めて思いました。
私は今からヨガの試験があります。
だから、いろんな事がこの1ヶ月学びがあると思います。
どうぞ、見守ってやってください。