フェスティバル東京の利点は海外のコンテンツをこの日本にいて体感できることだ。
演劇や芝居はいかなる場所にいても表現の1つとして、感じることができる。
言葉の壁さえも乗り越えられる芸術としてのツールであると私は考えている。
よりそれが感じられるのは、音楽や踊りではないだろうか。言葉がないからこそ、視覚聴覚へダイレクトへアクセスすることが出来るからだ。
では今回の作品は、踊りでも音楽でもない。
でも写真を見る限り全く体感したことのない作品な気がして見に行くことに決定した。
こんな感じの作品だ。
つまりは、劇場でもなく、屋外の特別ステージでもなく、アテンドと一緒にしっかりと動いてその場の風景と状況を事前に準備してあった音を流しながら、作品展開をしていくというもの。
個人的には着眼点は素晴らしいと思う。
人が資格情報から得るものはかなり大きなものを占めている。だが、同時にイメージや音や匂い、つまりは五感をフル動員させ、以前より合った記憶を追加し、その場にあるものを認識していると思う。
ゴーグルは資格情報をかなりカットするほうこうでまるで映像を見ているような錯覚をさせる演出をしてある。
普段の視界から正面のみを16:9ぐらいでカットされしかもセピアに見せるようになっている。イメージはTVでみるカメラマンの目線がそのまま移動している感じだ。
遠近感もかなり鈍る。
役者が横にピッタリとくっつき作品を展開していく。
見せたくない情報の時にはシャッターが付いているので、完全暗転の状態になりそのまま移動されていく、これはこれで、盲目の気持ちを味わえるので面白い。
さて、肝心の作品だが・・・
正直未完成な感じがしてしまった。
着眼点は素晴らしいし、むしろこれを詰めていったら新しいジャンルが出来ると思える。
だが、体感する自分自身のコンディションや、周りの環境によって大きく左右される。作品を体感する人の自意識や、さまざまな恐怖症などに囚われているとこの作品は楽しむどころではないはず
今回は私は雨の中、作品を体感することになった。
雨は平気なのだが、やはり、多くのコンディションに一つでもマイナス要素があるとそのせいで作品に集中ができなくなるそれが残念だと思った。例えば、これは限界だと思うが、ゴーグルがどうしても曇る
雨の中、長時間の歩行を繰り返せばしかたがないそして、けっこう痛い。
緩いぐらいのほうがいいのかもしれない。でも目張りで光が入らないような加工をしているので、これは完全暗転を狙ってのことだろうから難しいところだ。
このへんにお金をもう少しかけられるとより素晴らしい物になるだろう。
あと、音の使い方。
どうしても、作品は徒歩によって完結されるだから、イヤホンで音を拾っている状態。
ではこれの操作をしているのは役者である。
この操作にもたつきやギャップがあれば、体験者はそれに気づいてしまう。(これは残酷なまでに素人でもわかってしまうんだよね)
だからこそ、プロの音響技術屋が存在するといえばそのとおりなんだが・・・

まだまだ、未発達の作品の展開のしかただからこそ、次も期待したい。
ぜひ、体感したことない人は体感することをお勧める。
まず、ない。
そして自治体のバックアップがなければ、成し得ない作品。これこそ、フェスティバル東京の醍醐味だ!